15年目の約束〜時の濁流に泳ぐ魚
2005年3月25日、愛知万博開幕。荒野草途伸自身は万博に行く予定はない。が、万博絡みの予定は、一つだけ入っていた。
15年前。名古屋五輪の誘致に失敗した愛知県は、今度は万博の誘致に動き出し、テーマを「産業と技術」、会場候補地を瀬戸市海上(かいしょ)町の県有林一帯(現在の万博瀬戸会場とその周辺)に設定した。
その当時、荒野草途伸は、高1だった。既に高校生ではあったが、たまに中学自体所属していた陶芸部に顔を出していた。陶芸部時代の話は、昔書いた桜落葉陶芸部という小説を参照されたし。ただし、これは内容に脚色が施されたものである。て言うか、そう言っとかないと関係者が見たら怒る。
陶芸部に顔を出していたのは、他に友達がいなかったから、ということにしておこう。そうやって顔を出していた時に、持ちかけられた話があった。
「15年後。万博開催初日に、またここに集まろう」と。
その当時は、「15年後・・・。30目前・・・。それまで自分は、生きてるのか?」などとまず思った。当時の自分は、「31で政府に反逆して逮捕され、33で獄死する」という人生プランを、何らの恥ずかしげも無く公言していたので、30というのは当時の自分にとっては寿命目前の年齢だったのだ。
その後そういうばかげた考えはさすがになくなったが、しかし「30になる前にはまあ間違いなく忘れてるだろうな」とも思っていた。
それから15年が経った。その約束は、少なくとも自分の記憶にはちゃんと残っていた。
しかし、自分が覚えていたところで、他のメンバー全てが覚えているとは限らない。否むしろ、忘れている可能性の方が高い。またたとえ覚えていたとしても、平日の、しかも年度末で一般的に仕事が忙しいこの時期に、わざわざ来るかどうかわからない昔の部活仲間を待つために中学校に来る酔狂な人間が、一体どれだけいるというのか。
正直、迷った。週半ばから気温が下がった所為で、体調も良くなかった。誰も来なければ、2時間も3時間も寒い中を待っていなければならないのだから。
それでも、10余年ぶりに中学校まで行ってみることにした。誰か一人でも、記憶を共有している人がそこにいるといい、そんな期待を込めて。
そして当日。
寝過ごして11時過ぎに目が覚める。
集まる日が万博開幕日、とは聞いていたが、具体的な時間までは聞いていなかった。聞いていたかもしれないが、とうの昔に忘れてしまった。何しろ15年なのだから。もし他の誰かが来るとしたら、何時に来るかわからない。ので、万全を期して朝から張り込んでおくつもりだったのだ。
だが、実際には遅刻である。目覚ましを止めたところまでは記憶にあるのだが、それから再び起きるまでの記憶が、何故か無かった。
慌てて着替えて、徒歩で中学校に向かう。家は学区のほぼ北端に位置し、中学校までは約2Km。うち半分は登り坂になる。なので、着く頃には息切れしていた。15年前は、毎日この道を歩いていたわけだ。そう、入学したての頃も息切れして、教室でぶっ倒れていた記憶がある。
陶芸部の活動場所は、校内のはずれにある窯業室においていた。集合場所もそこである。が、そこに行く前に先ず職員室に行く。
最近学校に侵入する不審者が多いとのことなので、そういうのに間違われないように予め断りをいれておく。
行ってみたら、15年前からずっとそこにいる先生がいた。しかもその人は、自分が小学生の頃にはその小学校にいて、その後中学校に移ってきた人だった。
余談だが。小学校にいる頃、その先生が全校集会で忘れ物とおぼしき傘を掲げて、この傘は誰のものかと叫んだ。誰も名乗りでないので、彼は言った。
「いないのか? 誰の物でもないのか? だったらこの傘かわいいから、先生の恋人にあげちゃうぞ。」
1年後。彼は職場結婚した。
そんな要らん話をわざわざすると校外に追い出されてしまうかもしれないので。そういう話はせず、ただ「卒業生が窯業室前で集まることになっているので待たせて貰っていいか」とだけ話し、許可を得た。
向かう途中で、ジャージ姿の女子中学生の集団に遭遇。中学校なのだから中学生がいるのは当たり前なのだが。唐突に「こんにちは」と挨拶され、おもわず「ちわ」と中途半端に返してしまう。おそらくは人にあったら挨拶しろと教えられているのだろうが。しかし、自分らのことはそんなこと教えられたって絶対言うこときかないような所があったような気がする。最近の中学生は、意外と出来がよいのかもしれない。
窯業室には鍵がかかっていた。自分がいた当時は、不良どもの襲撃を防ぐために人がいてもそうしていた。だが、今はただ誰もいなかった。卒業生も、在校生も。現在の陶芸部員の活動でもついでに見れればと思ったが、いないのでは見ようもない。そもそも、部が存続しているかどうかすら怪しい。自分らがいた頃にはもう既に、存亡の危機にさらされていた部だったから。
部屋の前で本を読みながら待っていたら、中学生男子がやってきた。前述のように中学校なのだから中学生がいるのは当たり前なのだが、しかし教員でもないむさい男がいるのは当たり前ではない。彼は「あっ」と声を出し、忍び足でその場をゆっくり離れて行った。そして角を曲がったところで一気に走り去っていく音が聞こえた。職員室に通報でもしに行ったのかもしれない。
予め断っておいて正解だった。
13時前。誰も来ない。日本全国が低気圧に覆われ、真冬並みの気温といわれた日である。風が吹いて非常に寒い。
そろそろ撤収時刻を検討しなければならないなと思いつつ、ふと、あらかじめ電話なりで関係者に連絡をつけておけば、こんな当てもなく待ちぼうけることは無かったのではないかということに気づく。
気づいた時にはもう遅い。電話番号は調べなければわからないし、電話帳のあるところに移動すれば、すれ違いになってしまうリスクもあったからだ。「私はここにいる」と書いた張り紙でもしておこうかとも思ったが、紙もペンも持っていなかったし、そもそも無関係の中学生が見たら、変な学校伝説の要因ともなってしまいかねない。私はもう、これ以上伝説になるのはごめんだ。
それから約15分後。ようやく、一人の男が現れた。何となく見覚えはあるのだが、しかし全然関係ない人間かもしれない。お互い牽制し合うかのように無言で1分ほど立ちつくした後に、名を名乗りあってようやく、待ち望んでいた関係者であったことが判明した。
ちなみに彼は、前述の「桜落葉陶芸部」でBのモデルとなった男である。
しばらく二人で話しながらその場で待機していた。
彼は東京で汎用機系のシステムの仕事をしていて、月労働時間が300時間あるのに残業代が出なくて月の手取りが18万しかないと言っていた。とりあえず転職を勧めておいた。というか、彼はこの日のために、就職して以来初めての有給休暇を取り、わざわざ東京からやってきたのである。凄い話だ。
14時過ぎ。それ以上待ってももう来ないと判断し、撤収。とりあえず二人で近所の喫茶店に移り、「二人しか集まらなかった」というこの事態の検証に入る。こんなこと誰も覚えていないとか、陶芸部時代は言わば悪しき過去だからもう無かったことにしたいのだとか、いろいろ理由が考えられたが。結局、「15年という時間を掛けた、壮大な『釣り』だった」という結論で合意した。
まあしかし。例え本当にそうだったとしても、別に悪い気はしない。これによって手に入れた15年の時の重み。これは、釣られたものにしか手に入れることが出来ないものなのだから。
春に似つかわない粉雪が舞う中、私はそう思いながら帰途についたのであった。
(blog3/24・25記事に加筆)
−−−−−−−−−−−−−−