日本の標準て何?

 唐突だが、今日は”日本の標準”について語ろう。いいのだ。ここには特に決まったテーマなど無い。わたしが勝手に言いたいことをしゃべる所なのだから。
 まあ、なぜこういう事が唐突に思い浮かんだか、くらいは説明しよう。私は決して些細でない理由から今現在ある友人と対立状態に入っている。私は心の狭い根暗な人間だから、一人でいるときにそいつの欠点や失敗をいろいろと思い返していたわけだ。で、そのなかに、彼による「不当な沖縄批判」というのがあった。
 具体的内容は、忘れてしまった。あまりにもばかばかしい理由だったからだ。ただ彼の主張する「沖縄異常論」の根拠が、、(彼は某K県出身なのだが)、「K県ではこうこうこうなのに、沖縄ではそうじゃない。だから沖縄は異常だ」という理由だったのだ。
 その当時では、私はまだ彼と対立状態になかったので、あえて反論することもなく黙っていた。しかし内心では、「こいつアホか」と思ったものだ。なぜなら、彼の言うところの「K県の常識」(それにしたって、本当だったのかどうかはっきりとした証拠がないのだが)というのが、とても「日本の常識」とは思えない、という内容と判断したからだ。
 そこで、(当時の)わたしが「日本の常識ではない」と判断した根拠が、「A県でもそうではない」という理由だった。A県とは、一応わたしが20年間生まれ育ったところである。あえて、日本の7大都市圏の一角に数えられることを書き添えておこう。

 しかし、ふと思ったのだ。この判断の仕方はどこか間違っているのではないかと。
いや、(彼言うところの)K県が日本の常識である、というつもりは無い。かといって、A県が日本に於いて常識的な位置にいる、という根拠だってないのではないか。いやむしろ、「常識的な位置にない」と言っても過言ではないだろう。
 そもそも、日本という国はどういうわけか、都道府県が変わると言葉や文化・風習・食べ物・選挙事情まで変わってしまう、という不思議な国である。そりゃまあ、アメリカや中国だって、州や省が変われば、いろんな事情が変わってくる、ということはあるだろう。しかし、規模が違う、スケールが違う。アメリカの州や中国の省に比べて、日本の都道府県の何と狭いことか。そもそも、いつだったか「日本は合衆国第51番目の州」などという言われ方がされたことだってあるくらいだ。理由が全然違うけど。
 まあ、ここで行政単位の面積についてあまり論じるつもりはない。しかし、日本という国は、地形だけでなくこういう社会的な面まで起伏に飛んでいる奇妙な国、ということは言えるだろう。
 そうすると、「日本の常識」というのはどこにあるのだろうか。こうも地域によっていろんな事情が異なるのでは、「これが常識」と言えるものを導き出すのも容易ではないだろう。
 まあ、中には「東京が標準」という人もいるだろう。確かに、東京は人口1000万、「東京圏」も含めれば2000万人を超える、世界一の大都市圏ではある。しかしそれにしたところで、日本の総人口の20%弱にしかならない。
 そりゃ確かに、少数分立ののなかでの「20%」というのは大きい。かつて自民党が、20%そこそこに支持率しかないのに衆参で過半数に迫る議席をあげたこともあることを考えると、あながち馬鹿にはできない数字ではあるだろう。しかし、だからといって、「東京が標準」というのには抵抗を覚えざるをえない。
 そういえば、かつてわたしが小学生の頃「標準語というのは、東京の方言を基準に日本政府が策定したもの」というとんでもない教えを受けた記憶がある。どこをどうすれば、あのべらんめえ調が標準語になるというのだろうか。東京至上主義者の弁にも困ったものだ。

何だか今日はずいぶんと論説を展開してしまった。しかし、これくらいのことは昔から言われてきたことではある。僕の意見は、所詮焼き直しに過ぎないのかも知れない。まあ、どうせこれは自分が自分で好き勝手なことを言う場なのだから別にいいか、という結論をえて、私はこの文書を保存する。 −−−−−−−−−−−−−− 戻る  /