オウム真理教の動きが、再活発化しているらしい。と、今日のザ・スクープでやっていたようだ。見てはいないんだけど。そもそも、本来寝ているはずの時間なのに目が覚めてしまったためにこうして起きて文章など書いているわけで、そんな時間にテレビを見る予定など立てるはずがない。
日本中がオウムブームに浮かれたのは四年前、1995年のことだ。こういう言い方をすると、サリン事件の被害者とかから不謹慎だとか抗議を受けるかもしれないが、あれはまさにブームという言葉が適切な事象だっただろう。乱痴気騒ぎとすらいっても良い。ちなみに国際バギ星人協会の設立も同じ1995年のことで、その後しばらくIABPはオウムと混同されてえらい迷惑をしたものだ。IABPに限らず、当時ちょっとでも「あやしい」「はずれてる」感じがする人はオウム呼ばわりされて後ろ指を刺されるという、一種の魔女狩り人民裁判状態であった。まさに人権侵害の暴風が吹き荒れていたわけである。
人権侵害といえば、当時オウムをつぶすために公安調査庁が「破壊活動防止法」適用という強硬手段を採ろうとし、左翼勢力の猛反発を食らって結局つぶされるという事件があった。この事に絡んで、今オウムの活動が再活発していることをあげて、「やっぱりあのとき破防法を適用するべきだったんだ!」という主張をする人がいる。しかし、それは間違いだ。むしろ、あのとき破防法なぞ持ち出したりするからオウムが生き残ってしまったのである。
破防法の制定は1952年(昭和27年)。朝鮮戦争とマッカーシーの赤狩り,そして冷戦の顕在化の影響で、日本の政治主流が再び右傾化した頃のものである。戦後民主主義体制の元で強大化した労働勢力と、方針転換した米軍の支援を受けた右翼勢力との間で衝突・事件が頻発し、1949年には下山・三鷹・松川の三大事件が発生している。このような時代状況を考えれば、破防法の制定目的が、労働運動や当時武装闘争路線を採っていた共産党を標的にしたものであることは疑いの余地がない。
しかしその後、破防法はその制定目的を十分果たすことなく40年以上を過ごすことになる。法制定時の主要標的であった共産党はその後武装闘争路線を放棄、朝鮮総連も北朝鮮の国家建設事業を最優先して、特にこれといった破壊活動を行わなかった。1960年代に主要監視団体に創価学会が加えられたが、その後共産党と同様議会民主主義路線に転換し、「破壊活動」を行う可能性は限りなく0に近くなってしまった。逆にこの間、新左翼各派や民族青年派といった過激団体が破壊活動を行ったりしているのだが、結局適用されたのは個人に対してのみであり、破防法の神髄である「団体適用」は適用されることは無かった。
にもかかわらず破防法は廃止されることはなく、共産党や創価学会への監視活動も継続された。これはもはや、公安調査庁の組織防衛のため以外の何者でもないだろう。共産党・創価学会側としては、何もしていないのに監視されるのだから、たまったものではない。当然彼らは「破防法嫌い。無条件でキライ!」となる。
これらの事実を頭に入れておいてもらいたい。
そして松本サリン・東京地下鉄サリン事件の勃発。公安側は「当然として」共産党や朝鮮総連を疑い、逆に左系のジャーナリストは自衛隊や米軍の関与を疑った。ところが、犯人はオウムであった。公安当局は、それまで無監視状態であった新興宗教テロという事態に慌てふためき、対応はことごとく後手後手に回った。一方共産党系勢力は、これに先立つ坂本弁護士誘拐事件以来、オウムへの潜在的反発・不信感があったこともあり、党員や系列のジャーナリストを総動員して、警察・公安当局をも凌ぐほどの事件捜査能力を発揮する。元々共産党は、公安の監視や新左翼各派との抗争に対応するため、この手のアングラ系情報の収集機能は十分に整備されていた。捜査当局側もこのような状況を無視するわけにいかず、共産党からの情報提供を積極的に受けることになる。いわば、仇敵同士が手を組んだわけだ。
このころの共産党幹部やそれに近いジャーナリストの発言には、注目すべきものが多く見られる。「破防法に変わる新たな治安立法の制定」という主張も、その一つである。オウム事件に限った時限立法、という前提付きではあったが、これは旧来の「治安立法絶対反対!」という主張との整合性を図ってのことだろう。思えば、共産党の現実路線転換はこのころに始まったと言える。一方、当時適用が一部でささやかれ始めていた破防法は、その時点ですでに「ザル法」「役立たず」「意味がない」「危険」などと、ぼこぼこに批判されていた。
実際破防法は、制定当初から「妥協の産物、適用不可能な法」といわれていた代物である。しかも制定から40年以上が経ち、オウムのような宗教テロや、今後発生が予想されるサイバーテロに十分対応できるとは言い難いものである。そういう意味からも、破防法を廃止し、新たな治安立法の制定を行うことは十分意味があったはずである。しかも、本来この手の問題に一番うるさいはずの共産党が協力姿勢を示していたのだから、まさに千載一遇のチャンスであったというべきである。法制化の議論に一・二年かかっていたとしても、今頃はもう制定・施行までこぎ着けていたはずだ。オウムの再活性化にも対応できただろう。
ところが公安調査庁は、破防法の団体適用という最もまずい手段に踏み切ってしまった。前述のように、破防法は共産党や労働・人権団体にとってはいわば親の敵にも等しい存在である。当然、これらの勢力は態度を硬化させ、国論を二分する大論争が始まってしまう。この大論争のおかげで、オウム関連の捜査は急速に行き詰まってしまう。そして審議の結果、オウム真理教への破防法適用は見送り。結果として、オウム真理教は現在に至るまで生き残り、しかも再拡大を始めている。
公安調査庁が、破防法適用反対の声が強まっていたにもかかわらず適用に踏み切ったのには、当時同時進行していた行政改革と関係があるといわれている。先日、国の行政組織を一府一二省庁に再編するという骨子が決まったアレであるが、当時公安調査庁は組織的に完全廃止される方向で話が決まっていた。そこで公安調査庁は、組織防衛のために存在意義を示す必要に迫られ、強引な破防法適用に踏み切った、というのである。まさに官僚の論理、自己中心的な発想である。
そして四年が経過した。共産党はすっかり現実路線への転換を定着させ、一頃言われた党解散の危機はすっかり昔のものになっている。公安調査庁は公安委員会への統合・組織縮小を余儀なくされるものの、辛うじて生き残りを果たした。国民の心は不安と猜疑心で支配されながらも、退廃的な文明の残り香を楽しんでいるように見える。オウム、そして破防法も残った。この四年間で、何もかもが変わってしまったように見えるが、実は何も変わってはいないのではないか。変わることがよいこととは限らないが、少なくとも変わらないよりはましである。21世紀まで残り一年半。日本社会は、今のこの奇妙な安定状態がずっと続いていくのだろうか。非常に不安である。
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