荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自創作文章群 >> あなたは誰ですか
 それは、夢の中だった。
 
 教室の中には、赤みがかった日が差していた。後ろの黒板にはさようならという走り書きがあり、それを見て私は、ああ自分はこれから転校してゆくんだな、と思った。
 じゃあな、そう言って男子の数名が教室を出て行った。彼らは高校の同級生達だった。お前これから大丈夫か? そう後ろから声をかけてくれたのは、小学校の同級生だった。私は笑ってそれに応えた。無理をしている、という感覚が残った。
 教室には、そこにいるべき人数の半分もいなかった。私は、残っている人に挨拶しなければと思った。後ろの黒板から廊下沿いの席まで、弧を描くように女子が固まっていた。私はその端に歩み寄った、
 
 この人は、自分が初めて好きになった人。
 私がまだ、幼稚園児の頃だっただろうか。すぐ近くに住む、私と同じ歳の女の子だった。だから今目の前にいるのは、自分と同じ年格好の女性。けれども、大きな瞳だけは変わりはなかった。
 彼女に自分の思いを伝えたことはなかった。幼い頃のその思いはまだとても未熟で、伝えるだけの言葉もまた、持ち合わせてはいなかった。だから彼女も、自分の思いを知りはしない。ただ昔のように、無邪気に私と話していた。
 
ここをトップに持ってくる
 小学生の頃、二度目の恋をした。
 都心から転校してきた、とても博識で好奇心旺盛な子だった。いつも仕入れたばかりの知識を、真っ先に私に披露してくれた。今でもそれは変わらないのか、とても理知的な顔立ちをしている。ただ、いつ目を悪くしたのか、大きな眼鏡をしているところが違った。
 彼女とは二人だけでいることも多かった。きっと心が通じ合っていた、少なくともそんな時期があった。周りに知れれば身に危険が及ぶほどからかわれる年頃。だから互いに、決してそれを口にすることはなかった。そして言葉によって繋がれることなく、いつの間にか二人は離れていった。
 きっとこういうのを、縁がなかったって言うのね。彼女は寂しそうに、そう呟いた。
 
 高校生の頃、好きだった人がいた。
 同じ学校に通う人だったが、通学電車の中でしか見たことがなかった。校章の色から、自分より一つ上だとはわかっていた。一目惚れだった。特に美人というわけではなかった。けれども、その人の姿は思春期まっただ中だった私の心に深く焼き付いて、離れようとはしなかった。
 友人を介して、彼女の友達とは親しくなれた。ただ、彼女自身との距離を縮めることは出来なかった。心がとても、最も弱い時期だった。一度だけ、電車の中で二人で立っていたことがあった。僕は彼女に頼まれて、彼女の荷物を持っていた。ただそれだけだった。
 どうしてあの時、何も言ってくれなかったのかな。そう問いかける彼女に、当時の思いが蘇ってくるような気がして、また何も言えなくなってしまった。
 
ここをトップに持ってくる
 彼女は大学の後輩だった。
 工芸研究会の副部長をしていたときに、彼女は入ってきた。とても明るく人なつっこかった。小柄で、髪はポニーテールにしていた。髪型だけは今も変わらない。ただ、まだ子供っぽさを残していた当時と違い、今はとても大人っぽく見えた。
 彼女には半年ぐらい経った秋に、付き合ってくださいと告白した。彼女はとても困った顔をして、一週間前に同じ工芸研究会の男に告白されて、付き合うことになったのだと言った。そして、目を逸らしてしばらく黙っていた。
 あの時はごめんなさい、先に付き合っていた人を振る事は出来なくて。今目の前にいる彼女はそう言った。そしてそっと、恋が先着順だなんて思いたくなかった、と呟いた。
 
 最も最近好きだった人、それは会社の同期だった。
 おそらくこれまでで最も親しくなった人だった。初めは同期の気軽さで親しく話していただけだった。それが、いつも一緒にいるという事実に気づいてから、お互いを意識するようになった。一緒にいることに、特別な理由はなく、ただの偶然だった。偶然ゆえに、二人の心はさらに近づいた。
 けれども、二人がつきあうまでには至らなかった。互いに別々の仕事を割り振られ、忙しくなり、言葉を交わす時間が無くなってしまった。余裕がなかった。作る努力も怠っていた。そうしているうちに、二人の心は出会ったばかりの頃のように戻ってしまった。
 やりなおせるかな、そう問いかけた私に対して、彼女はどうだろうねと言った。そしてそれ以降の言葉をためらった。ためらう理由は、自分にもわかった。また同じ事になるのではないか。そんな不安が、自分の中にもあった。
 
ここをトップに持ってくる
 教室に並んでいる女性達にずっと挨拶をしてきた。そして、最後に一人、残った人がいた。30代半ばの、髪の短い女性。綺麗な人だな、と思った。その人が誰であったかは思い出せなかったが、きっと過去に自分が好きだった誰かなのだろう、と思った。
 その人は、私の顔を見るととても済まなそうな表情をして見せた。何故そんな顔をするのか、私にはわからなかった。
「ごめんなさいね」
 その言葉の意味も、すぐにはわからなかった。暫しの間があって、私は、ああ自分はこの人にふられたんだ、という理解を得た。
「あなたに好きだって言われて、すごく戸惑った。けど、最後にかっこいいあなたをみれて良かったと思ってる。」
 そのかっこいい事というのが何のことなのか、考えても思い出せなかった。仕方なく私は、作り笑いをしてごまかした。その意味に気づいたのかどうかはわからないが、彼女も笑い返してきた。
 
 全ての人に挨拶を済ませ、私は教室を出た。自分はどこに行くのだろう、ふとそんなことが頭をよぎった。だがその疑問は、自分の足取りを止めるものではなかった。私は歩き続けた。進む先に、白く明るい光が差していた。眩しくて何も見えなかった。
 ふと、一つの事実に気づいた。そして同時に、一つの疑問に。その事実と疑問には、私は足を止めざるをえなかった立ち止まり、振り返った。先程の、髪の短い女性が視野に入った。どうしたの? とでも言うかのように私の方を見ていた。私は彼女に問いかけた。
「あなたは、誰ですか――?」
 
ここをトップに持ってくる
 
「私は、医者ですよ。」
 その言葉で、目が覚めた。光に目が慣れるまで、何も言えなかった。ぼんやりと浮かび上がる視界の中に、医師と看護師の姿が見えた。そして記憶も蘇ってきた。空虚で、しかし多忙な日々。仕事のトラブル。徹夜続き。八日目に、記憶が途切れた。
「わかりますか? わたしのいうこと、わかりますか?」
 医師はそう問いかけてくる。私はゆっくりと頷いた。気分はいいかとか記憶はあるかというような質問をした後、医師はこう言った。
「こう言っては何ですが、これを機会にゆっくりと休まれるといいでしょう。仕事のことは忘れて。」
 私は頷いた。そして天井を見ながら、何かが心に引っかかっていると感じていた。
 
ここをトップに持ってくる
 数日後、私は退院できた。週明けには仕事に復帰することになるのだろうか。そんなことを思案しながら、散策に出かけた。
 公園のベンチに一人の女性が座っていた。髪の短い、綺麗な人だった。その人を見たとき、私はどきりとした。そしてあの時見た夢が思い出された。私は吸い込まれるように、ベンチに近づいていった。
 突然近づいてきた私に、彼女は怪訝な顔をした。
「隣、よろしいですか?」
 そう訊くと、彼女は怪訝そうな表情のまま頷いた。私は隣に座り、もう一度彼女が誰だったか思い出そうとした。だが思い出せなかった。確かに彼女は初めて会った人だった。
 そう、初めて会った人。その彼女が、過去の女性ばかりが出てきたあの夢に現れた意味は、何だろうか。
 彼女は立ち上がろうとしていた。それを私は、慌てるようにして引き留めた。
「お話ししたいことがあるんです」
 彼女は座り直し、じっとこちらを見て話を聞く姿勢を作ってくれた。
 
 空は晴れていた。白く見えるほどに光が眩しく。その光のこちら側に、彼女がいた。
 
広告:
「独自創作文章群」トップに戻る
INDEXに戻る