4.
「今日も星が綺麗になりそうだな。」
まだ明るさの残る空を見上げながら、誰かに言い訳するかのように僕は歩いていた。決して悪いことをしに行くわけではないのに、しかも周りには誰もいやしないのに、そこに行くのに何か別の理由をつけておかなければならないような、そんな奇妙な感覚があった。それは、もしかしたら一種の予感だったのかもしれない。
「困りますよおじいちゃん、こんなところを徘徊されたら。」
横から突然かけられた声にどきっとして、反射的にその音源の方を向いた。街路灯と残り陽の双方の光に照らされて、紺田洋平の姿が現れた。
「ま、しかし、君がおじいちゃんと呼ばれるには、あと3倍人生を過ごさなきゃならないけどな」
彼は無意味に空を見上げながら、そんなことを呟いた。いや、無意味かどうか、正確にはわからない。彼の考えることは、僕には解らないから。だが少なくとも、今の僕の目には、彼のその行動は無意味に見えた。
「何の用だよ・・・」
僕は警戒しながら問いかけた。別に今に始まったことではない、彼はどこか、何をしでかすか解らないところがあるから、いつも警戒を怠ってはいけない。過去1年あまりの経験から導き出された教訓だ。
2mに満たない距離。それを置いて、二人は対峙している。その脇を、まるで関わり合いになるのを避けるかのように、授業を終えた学生達が通り過ぎてゆく。誰も助けてくれない。ふと、そんな考えがよぎった。助けを求めるほど深刻な事態になるとも思えなかったのに。何かを焦っているのだろうか、自分は。
その心を知ってか知らずか、紺田がようやく口を開いた。
「いや、特に何の用ということはない。ただ、空を見つめながら道を歩く君の姿を発見してしまったものでね」
「空を見つめている人間がいたら無条件で寄ってくるのか貴様は」
「無条件じゃない。空を見つめ、且つそれが井塚響助であった場合だ。人の話はちゃんと聴きたまえ」
そこでふんぞり返る紺田。無意味に。少なくとも自分にとっては。
「僕としては、そういう条件で接近して欲しくはない。敢えて言うならば、AllFalseにして欲しいくらいだ。」
「酷い言い方だな。君は僕と関わり合いになりたくない、そういう風にも取れるぞ」
「実際正直言ってその通りだ。」
「わからないよ。どうして君は、そんなにボクのことを邪険にするんだい?」
「胸に手を当ててよく考えてみろ。」
緩んでいた紺田の顔が引き締まる。何かを思い詰めたような。顔は俯き、視線が僕の目線からそれた。そして彼の右手がそっと動き、上がり、僕の右胸にあたる。服の上から、紺田の手の感触が伝わってくる。いつもより1オクターブ高い声で、紺田がそっと呟いた。
「響助君の。心臓の音、トクトク言ってる。」
「な、な、な、なにしやがるこの変態!!」
力の加減も無しに胴をひねり、右手で紺田の手を振り払った。咄嗟の行動に血流が荒くなり、息が激しくなる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、・・・」
「そんなに興奮するなよ。」
「ちゃうわっ!」
そう言いながら僕は、必死で呼吸を整えていた。息が収まり、心臓の鼓動も静かになる。脳も落ち着きを取り戻し、視界を正常に処理し始める。足早に通り過ぎてゆく学生達の向こうに、1年生とおぼしき女子学生が3人ほど見える。彼女たちは皆、驚愕と憧憬の入り交じった目でこちらを見ていた。一人は、両手が口元までいってしまっている。そして彼女らは、僕の視線に気づくとそそくさと立ち去ってしまった。
きっと、誤解された。そう考えると、とても鬱になった。
「響助君は下級生が好みか・・・」
視線で彼女たちを追いながら、紺田がそんな事を口走った。こちらは、誤解なのかわざとなのかわからない。
落ち着きを取り戻した僕は、その言葉は無視して言った。
「用がないなら、僕は行くよ。別に徘徊というわけじゃなくて、大事な用があるんだ。」
「ほう。」
紺田のかけた縁の薄い眼鏡が、きらりと光った気がした。否、実際光ったのだろう。街路灯の光路と僕の位置との間の角度を瞬時に計算し、僕の目に一瞬だけ光が眼鏡の縁に反射するように、体を微動させて。こいつはそういう、訳のわからん特技をいっぱい持っている。
「大事な用とは、一体なんだね? もしかして君の身の安全に関わることではないだろうね? もしそうなら、変な遠慮をせずに、この私に相談を」
「いや、遠慮してない。してないから」
早く解放して欲しかった。
「君は普段から、無意識のうちに他人に遠慮してしまう癖を持っているからね。いわゆる引っ込み思案というやつだな。だからこそ私は、こうして普段から君の行動に目をかけているわけだが・・・」
「・・・・・・・・。」
いっそ、何も遠慮せず、あっち行けしっしっと言ってやりたかった。
「それにもし、君が恐喝や悪徳商法、宗教勧誘の類に巻き込まれているのだとしたら、私としては放置しておけないからね。学園警備隊が構内を巡回しているとはいえ、そういった悪の意志を持った人間が、どこの闇に紛れて学生を食い物にしているか、わかったものではない。」
学園警備隊。その言葉で、僕ははっとした。
彼らに捕まると少々やっかいだ。例えば、構内で歩き煙草をしている奴がいたとする。そんな人間を発見すると、彼らは警笛を鳴らして仲間を呼び、取り囲んで小一時間問いつめるのだ。
勿論、今はそんな問いつめられるような悪いことをしているわけではない。しかし、もし彼らに疑いを抱かれるようなことがあったら。何ら罪のないことを、彼らに説明しきる自信は僕にはなかった。彼ら学園警備隊は、弁論部の人間をすら黙らせてしまうほどの弁舌力と理論武装を備えている。そんな連中に、僕などがかなうはずがない。
天を仰ぐ。まだ街路灯のつき始めた時間とは言え、夜中に、路上で、こんな訳のわからん人物と意味不明な問答をしているところを、奴らに見つかったら。彼らに、構内での争い事と勘違いされたら。
仲裁と称して問答無用でサークル等の彼らの拠点に連れて行かれ、話し合いと称して向き合って座らされ、腹を割って話すためと称して酒やらまずい煎餅やらを差し出され。
そういう目にあった奴を、僕は知っている。あまり親しくはなかったが、同じ授業を取っていた奴だった。まだ若かった。サークル棟には他にも人がいたが、誰も彼を助け出すことは出来なかった。みんな、自分の身を守るので必死だから。
僕は紺田の方を見た。紺田ならもしかしたら、奴らと対等に渡り合うことが出来るかもしれない。だが僕には、とてもそんな実力はなかった。詰問されれば、例え言いたいことがあっても何も言い返すことが出来ず、ひたすら押し黙ったままになってしまう。たとえ紺田一人の実力で血路を開くことができたとしても、それまでに小一時間はつぶれてしまうだろう。解放されて森に行っても、もうそこには彼女はいないかもしれない。
「ごめん、紺田。事情はいつの日か説明するから、この場は行かせてくれ」
そう言って僕は駆けだした。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、。」
ドームを縁取る木の一つに手をもたれかけさせ、僕は荒く息をしていた。全力で走ってきて、ちょっと酸欠気味だった。視界が霞む。それでも、ドームの中心に座り込んでいる人物が誰であるかは視認できた。
野口毬音は僕の存在に気づくと、立ち上がって、ぜえぜえ言っている僕の傍らにやってきた。
「大丈夫?」
「いや・・・ちょっと遅れそうになったから、走ってきたんだ・・・それだけだ」
紺田の事は、敢えて言わなかった。言っても説明しきる自信がなかった。
「興奮しているわけではなくて?」
「いや、そのネタはもういい・・・」
言ってから、この話は別件だったと気づいた。
ふふっ、と、毬寧は笑い、さあ、と僕に座る位置を示してくれた。
「早い時間にしたんだから、そんなに慌てなくてもいいのよ。」
「それで遅れたら、早い時間にした意味がない。」
「それもそうね。」
そう言って毬寧は、僕の顔をじっと見つめてきた。真っ正面に彼女の顔が見える。折角収まってきていた心臓が、又早打ちしそうになる。
「じゃあ、落ち着いたら言ってね。すぐ出発しましょう。」
微笑む毬寧。その顔を見ていたら、いつまでも落ち着くことはできそうになかった。僕はそっと目を逸らし、違うことを考えて気分を落ち着かせようとした。
僕の気分が落ち着いてから、二人は立ち上がって歩き出した。日は落ち、月と星と、わずかに近くの街路灯の光が森の中を照らしていた。
互いの素性が割れた後。僕は毬寧に、夜でなく明るい昼間にもあって欲しいと頼んだ。これは、僕にとってなかなか勇気のいることだった。これに対し毬寧は、少し困った表情をした。考える仕草をした。この反応に、僕は心の中でひどく狼狽した。勇気を持ってとった行動は、やはり裏目に出るものだったのだろうかと。
そして毬寧が口を開いた。
「今日――か明日、夜に。もう一度だけ夜に会いましょう。」
そして付け加えた。
「智羽も連れてくるから。」
「何で古瀬を?!」
僕は思わず叫んでいた。それを毬寧はやんわりと制し、言った。
「大事なお話――ううん、お話とは少し違うけれども。知っておいて欲しいことがあるの。」
「・・・・。」
「智羽、忙しいから。日にち決まったら知らせるわね。私か、もしかしたら智羽からかもしれない。」
そう言って、毬寧は去ってしまった。
そして翌日、毬寧からメールが届いたとき。僕はせめて、早めに二人で会ってくれと頼んだのだった。
「智羽、バイトが終わってから来るから。まだ当分来ないわよ?」
歩きながら毬寧は、そう話しかけてきた。
「わかってる。それよりも、待ち合わせの場所、古瀬はわかってるのか?」
「うん、教えたから。それにあの子、いろいろ持ってるし。」
それはきっと、古瀬自作のGPS端末のことなんだろうなと思いながら、僕は大きく頷いていた。
「で。ここです。」
毬寧が立ち止まる。そこには木の生えていない、いつも毬寧と会っているあのドームより少しくらいの開けた場所だった。天井はない。空が大きく見える。そして、時折風が羽をこする音が聞こえた。涼しい、少し湿気を含んだ風だ。そう感じた。
「ここで、三人集まって――!」
途中まで言いかけた毬寧が、不意に言葉を切り、驚愕の表情で一点を見つめている。僕も、同じ方向に視線を合わせた。そこには一人の少女が立っていた。
「――誰ですか?」
視線を感じたのか、少女が振り向いた。少女と言っても、自分たちとそんなに歳は変わりないだろうか。もしかしたら緑大の学生かもしれない。否むしろそう考える方が自然か。
「誰ですか?」
少女が、より強い語気で再度問いかけてきた。僕は毬寧の顔を見た。目が合った。
「訊いているんです。答えて――頂けませんか?」
そう言いながら、少女はこちらににじり寄ってきた。強い意志を持った目。そう感じた。
「僕は、僕は井塚響祐。ここの、緑大の2年だ。こちらは野口毬寧。」
「ここで何をしていたのです? いえ失礼、何をしようとしていたのですか?」
「何って・・・」
僕は再び毬寧の顔を見た。何をするつもりなのか、僕は知らない。知っているのは毬寧だけだった。
毬寧は何かを迷っているようだった。沈黙。少女は既に、二人の目の前にまでやってきていた。毬寧が口を開く。
「あなたは――あなたはそれを知って、どうするつもり?」
その問いに、少女は即答する。
「聞いてから決めます。ただ、おそらくはまず長官に報告することになるかと思いますが。」
そう言って少女は、携帯電話風の機械を取り出した。市販の携帯電話とは少し形状が違っていた。
「v6携帯? ――え?」
薄明かりの中で、小さな機械に刻印された文字が見えた。UGC。University Gardian Circle――
学園警備隊。
体中に戦慄が走った。緊張と危機意識が、体と思考を束縛する。何もしてない。僕は君たちに詰問されるようなことは、何もしていないんだ。空回りする思考の中には、その主張ばかりが巡っていた。一瞬、毬寧がこちらを向く様子が見えた。そして、何かを決心したような表情で、目を閉じ、両手をそっと組んだ。
風が、吹いた。意志がそれに流されてくるような印象があった。怯えと、焦りと。少女の方をみた。それが、目の前の少女のものであるような気がした。意志が変わる。あなたの。ここにいるの。と言うよりこれは、あなたなの? 誰? 誰? 違う、あなたは誰? そして思考は、大いに乱れた。
少女の手がポケットに伸び、小さな笛を取り出す。口にあてがい、吹き鳴らす。一瞬のことだった。
「待てっ!」
その言葉は、甲高い笛の音にかき消されてしまった。
ピピーッ! ピピーッ! 鳴り響く笛の音。そして、大勢の人間が集まってくるのが、感じ取られた。
広告: