8.
トンネルのような長い長い緑色の闇を抜けるとそこには、紺田がいた。
「・・・・。」
「よお。」
気づかないふりをするにはとうてい無理な位置に、彼は立っていた。わざとらしく、アメリカ人のごとく両手を挙げて立っていた。
僕は気づいたが敢えて無視するという行動を取ることにした。脇を通り抜けようとしたときに、紺田が呟いた。
「君が、大親友を無視するような冷たい人間だとは思いたくないな。」
僕はそれをも無視した。たとえ冷たい人間と思われても、彼と大親友呼ばわりされるのは嫌なのだと、言い訳しながら。
「まあ、いい。君がどんな人付き合いをするかは、確かに君自身が決めることだ。だが――」
「・・・。」
「恋人が落ち込んでいるときに、冷たい態度を取るような真似だけはしないことだな。」
その言葉には、さすがに立ち止まらざるをえなかった。
「――何が言いたいんだ?」
「それは自分で考えたまえ。言葉の意味を、深く吟味しながら。最もそれは、私と長いつきあいである君なら、そんなことをするまでもなく判ることだとは思うが。」
最後に余計な一言が入っていると思いつつ、僕は紺田の言葉の意味を考えた。
「――毬音が、落ち込んでいるから、行ってこい、?」
「君がそう思うなら、それが答えだ。それが我が心の内。なぜなら我らは心の通じ合った仲、朋友。」
「・・・毬音は、今どこ?」
「君と共に、我が心の中に。」
「・・・・・。」
「もいるが、実在という意味では、学園警備隊の本部だ。」
その場所を聞いて、僕は先日の一件を思い出していた。毬音が気分を悪くして、学園警備隊の本部に運び込まれた一件を。
「一体何があったんだ?」
「彼女の今日の行動予定を、君は聞いていたかね?」
「いや・・・」
「なら、それも含めて彼女から聞くといい。」
「それは、深刻な話だからなのか?」
紺田は空を見上げた。
「いや――実を言うと、私もよく知らないんだ。」
「は?」
「何となくの察しはついているのだが、具体的に何があったのかまでは知らない。」
「・・・・。」
「ただ、野口毬音が落ち込んでいるときには、井塚響助が最も効果的である。そう判断した。だから君を連れて行こうと思った。」
「そうか。」
紺田洋平。普段は非常にうっとうしい男だが、たまにこういう気の利いたこともしてくれる。その普段の行動にしても、彼にしてみれば相手への気遣いゆえのものなのだ。その表現方法は激しく間違っているが。きっと彼は、娘を溺愛したあげく嫌われてしまう父親になるんだろうな、ふとそんなことを思った。
「わざわざありがとう。・・・探したよな?」
「はは、まあな。」
紺田は目を閉じ、右手を額にやって悦に入っていた。
「何、案ずることはない。私は、いつだって、探し続けているのだから。」
また話が変な方に入ってきた。
「・・・なにを。」
「無くしてしまった、君の心さ。」
「人の心を勝手に無くすな」
未来の娘以前に、彼は自分の両親にも嫌われてやしないだろうか。ふとそんな心配をしてしまった。
緑丘総合科学大学文化系サークル連合付属構内自主警備団。明朝体でそう書かれた、古びたアルミプレートがかかっている。その脇の扉を、紺田が勢いよく開けた。椅子に座った毬音の姿を見て、僕は少しほっとした。思っていたほど、落ち込んでいる様子ではないと。
「あら。突然どこへ行ったのかと思ったら、井塚君連れてきたのね。」
ここの責任者であるところの中橋長官が、紺田に向かってそう言った。
「フィアンセとして紹介したいというわけじゃないので、ご安心を。」
「安心していいのかどうか、微妙に悩むところね・・・」
そんな会話を後ろに聞きながら、僕は毬音の元に歩み寄っていった。
「大丈夫? なんかあったの? 詳しいことは聞いてないんだけど。」
「うん? うん、私は平気。ちょっと凹んでるだけだから。」
そう言って毬音は僕に笑いかけてきた。それはいつもよりも力なく思えたが、しかしそんなにひどい状態でもないなと安心できる程度であった。
「何があったの? 言えないことなら、いいんだけど。」
「ううん、そうでもない。ちょっと、自分の思い通りに行かなかったものだから。私ってだめね・・・」
それは、自分の思い通りにしようとしたわがままと、それが通らなかったことで落ち込んでいる自分、どちらへの嫌悪だろうか。それとも両方なのか。僕は毬音の心が見えないか探ってみた。しかし、それは見えなかった。
「馬場さんが、心の中を知りたいという人がいて。一緒に会ってみたの。でもだめ、私じゃ無理だった。」
「・・・。」
以前に聞いたことがあった。毬音が心を伝えられるのは、結局心を開いたもの同士でしかないと。つまりその相手は、馬場諭紀子に心を開いてはいないという・・・・
その考えに気づいたのか、毬音が首を横に振った。
「それすらもわからないの。開いているのか閉じているのかもわからない。行き着くべきものが何か、全く見えないの。」
「・・・・。」
僕には毬音の持っている力はない。だからそれがどういう事かはよくわからない。ただ、その毬音と諭紀子があった人というのは、今まで彼女があったこともないような人物なのだという察しはついた。
「同族ならすぐ話が通じるはずだと思って・・・。甘かった。すごく甘かった。」
「同族・・・。」
その単語の意味するところが、すぐにはわからなかった。
「まあ、毬音が落ち込むのもわかるけど。それ以上に諭紀子も落ち込んじゃってるのよねー。」
後ろから、声がかかった。
「あ、古瀬いたんだ。」
「まっ。毬音にばかり目がいって、あたしには気づかなかったって言うのね。嫉妬しちゃう。と言うより失礼だわ。くやしい。きぃ。」
不必要に思えるほど、恨み辛みの言葉を並べ立ててくる古瀬。その手には、スプーンと紙カップが握られていた。健康プリン、モロヘイヤ・ウコン・納豆キナーゼ入りと書かれていた。まずそうだな、というのが正直な感想だった。
「で、もっと落ち込んでるって?」
「ほら、そこ。」
古瀬がさじで一点を指す。そこには、机に突っ伏した諭紀子の姿があった。
「・・・ああ、気づかなかった。」
「あらま。本当に毬音しか眼中にないのね。」
「いや、そういうわけじゃ・・・そういうつもりじゃ」
「実際その通りなのだから仕方なかろう。そういう間柄だし、誰もそれを責めたりはしない。」
なにやら書類の束を抱えて戻ってきた紺田が、そう言った。
「それは?」
「プーチン元大統領が、遺言代わりに残したKGBの極秘資料だ。」
「あの人まだ存命中・・・」
「で、それ何なのよ。」
「落ち込んでる野口さんと、それを慰めたい響助君の役に立つのではないかと思ってね。」
「諭紀子は含まれないの?」
「・・・私はいいんです。元々私の勝手なお願いだったはずなのに、野口さんまでこんなに落ち込ませてしまって・・・」
そこで、初めて諭紀子が口を開いた。力ない声で、顔を机に突っ伏したままだった。毬音は何か返したそうだったが、しかし言葉が見あたらないようだった。
そんな諭紀子に、紺田がそっと近づいて言った。
「まあ、馬場については、後で個人的に慰めてあげるから・・・・」
それに対し、諭紀子は顔を上げることもなく、返答した。
「・・・紺田先輩のことは、嫌いじゃありません。言葉を自在に繰って、自分の思う状況を作り出す、その能力には尊敬の念すら感じています。でも、そういう事言う紺田先輩は、私嫌いです。」
それは一瞬嫌みなのかと思ったが、しかしどうやら一字一句間違いなく本心のようだった。故に、紺田は珍しくショックを受けたようだった。ふらふらといすの近くまで歩いてゆき、崩れかかるように座り込んで、そのまま突っ伏してしまった。
そんな紺田のそばに、宮前氏が近づいてきた。手にしていた花器を投げ出されていた紺田の腕の間に置き、菊を3本そこに差して、腕組みをした。
「どうだろう?」
「私は、お華ってよくわからないから・・・」
問いかけられた中橋長官は、困っていた。
紺田は数分で復活した。持ってきた資料を、意気揚々と掲げていた。
「さて。これが、園 和俊、二人がさっき会っていたという少年だがね、その園君に関する資料だ。」
紺田はそこで少し沈黙した。何かを突っ込んで欲しかったようだが、誰も何も言わなかったので、そのまま言葉を続けた。
「いわゆる個人情報という奴だ。外部に漏れるといろいろ社会問題になる。」
「ここで君が持ってる時点で、既に社会問題じゃないのかな?」
後ろから、宮前氏がきつい突っ込みを入れていた。
「いや、実際はそんな問題になるようなものはないです。殆どが私自身でまとめたものですから。」
「まとめた? 何を。」
「彼と話した内容と、その分析とか、だな。」
「話したことあるんですか?!」
諭紀子が起きあがった。紺田に食ってかからんばかりの勢いだった。
「ああ、ある。というより、悪いが君よりは親密な仲だな。」
「何故・・・・」
「愛し合っているから・・・・・・・と言うのは冗談だ。」
馬場のすさまじい表情の前に、紺田はあっさりと前言を撤回した。
「実際のところ心を許していると言うほどではないだろう、交わしている言葉だけを取れば、ね。ただ彼の場合・・・」
そこで紺田は、毬音の方に目をやった。
「言葉を必要としないからね。」
ふんふんと、古瀬が頷いていた。僕は最初何のことかわからなかった。毬音の意思疎通の力を借りて、ようやくその意味がわかった。つまり、それと一緒だと。
「つまりそれは、違う方向から心を開いているということになるの?」
「確かに、字面通り心を開いてはいるな。」
紺田は、資料のうちの一冊を手にとって、ぱらぱらとめくりながら続けた。
「ただし。彼が自分で選び取った部分に限るがね。」
「そういうのを、心を開いていないと言うんじゃないか。」
「全くだ。」
「つまり彼は、あんたにも心開いてないと。そいう事よね?」
「そう。自ら開くことは、なかった。ただ、ある程度こじ開けることは出来た。これがその結果だ。」
「なんてやつだ・・・。」
「あなたは・・・そんなことが出来るんですか?」
毬音が驚愕の表情で紺田を見つめていた。それにはある程度の尊敬の念が入っているように見えて、僕は、それは違うぞと修正を入れたくなった。
「何も答えないから家までついて行ったら妹さんに会うことが出来たので、飴をあげようとしたらあっさり観念した。」
「犯罪だ・・・」
「失礼な。ちゃんと本人の意思を尊重した結果だぞ。」
「尊重ってのは、そうせざるを得ない状況を作って強引に意思表明させた場合も、成立するものなのかしら?」
「意思表明すら許さない君にそんなことを言う権利はないぞ、古瀬智羽。言っとくが、さっき君が食べ終わった健康プリンは、私のものだからな。後で金払えよ。」
「まっ。あんた、あんな不味い物食べさせておいて、その上お金払えって言うの? 横暴じゃない?!」
「他人のもの無断で食べておいて、その上そんな言い草をする君の方がよっぽど横暴だと思うのだが。どうかね?」
言い合いを続ける二人を、僕は身を縮めながら見ていた。いつこの理不尽な争いに巻き込まれるのかと怯えながら。諭紀子は紺田が持ってきた資料をひたすら読みふけり、そして毬音は、何かに思い当たったかのように、じっと考え事をしていた。
「もう一度、会ってみようと思うの。」
帰り際、毬音がそんなことを言い出した。
「私、やっぱり自分の力を過信していたのかもしれない。心は繋がるものだと、勝手に決めつけて。それに至るまでの努力を、しようとしなかった。」
「いや、それは。だって、知らなかったんだし。仕方ないんじゃない?」
ううん、と毬音は首を振った。
「もしかしたら、彼はそれを望んでいたのかもしれない。私たちの持つ力ではなく、たとえば、言葉で。」
「いやだって、今まで馬場さんとだってろくに会話してなかったんだろ? だからこそ毬音に依頼が行ったわけで。」
「それはきっと・・・・彼女が彼に持つ思いと、私が持つ思いとは違うから。」
「・・・?」
「現に、心を開かせるための努力をした紺田君には、彼はちゃんと応じているし。」
「いやあれは、そういうのじゃないだろ。強引さに負けてと言うか。脅迫めいてるし。犯罪だ。」
「それでも言わずに済ませることだって、出来たはずよ。」
「・・・・。」
「無条件で他人を拒絶してる訳じゃ、ないと思うの。」
「それは・・・そうだね、誰であれ無条件でそんなことをする他人は、あまりいない。」
「だから。もう一度会って、今度は言葉で話してみようと思うの。私自身の心を伝えるために、私の意志で。」
「そう・・・。そうか。」
それは、決して間違った行為ではないと思った。けれでも僕は、その毬音の行動に不満があった。それは決して正当なものではなく、単なる自分のわがままではあったけど。
「でも僕は、二人きりで彼に会うようなことをして欲しくない。」
「・・・・。」
「わかってる。毬音が、そういうつもりで会いに行くんじゃないことも、僕の元から離れる意志が全くないことも。でも、なぜだか不安なんだ。」
「そう・・・」
毬音は、戸惑いと落胆の入り交じった表情を見せた。そんな顔はして欲しくなかった。僕は、解決策を見いだそうと、必死で頭の中を動かした。答えは、すぐに出た。
「だから・・・僕も一緒に行く。」
「え・・?」
「僕も一緒に、園という人に会いに行く。変に思われるかもしれないけど、そうさせて欲しい。」
「・・・・。」
毬音は一瞬考えて、そして、首を縦に振った。
「わかった。じゃあ僕、一度学園警備隊の方に戻るよ。」
「え、なぜ?」
「資料。あれ、ちゃんと見てなかったんだ。会うんだったら、読んでおいた方がいいでしょ?」
「そう。じゃあ、私ももう一度見ておく。」
そう言って毬音は、僕と一緒に駆けだした。
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